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新潟県中越地震・そのとき
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JH0EYA (2006/06/08)Last Update
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この日は朝からとても良い秋晴れの一日でした。そして・・・。
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1:2004年10月23日(土曜日)17時56分、そのとき・・・
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愛乱度家は夕飯時であった。夏休み以来、寮生活で全然帰宅していなかった子供が数ヶ月ぶりに帰ってきており、ごちそう(当家比)が並ぶ予定だった。
熱燗も温まり、ニョーボの手作り寿司ができ、もうすぐ食べようかという17時56分、下から突き上げる大きな縦揺れが来た。この時点で尋常でない地震が来ると自覚。「大きいのが来るぞ」と覚悟した。
やがてやってきた横揺れは今まで体験したことのないものだった。後に中越地震と言われる地震である。
サラウンドで聞こえる家のきしむイヤな音と、地面からの轟音。食器棚が立てる茶碗の音。子供はテーブルの下に隠れ(幼稚園の頃から遊びでやっていた避難訓練が、まさか役立つ日が来るとは思わなかった!!)、ニョーボは台所で作ったばかりの寿司桶を抱え、母親はお風呂、そして私はなす事もなく仁王立ち。台所の火の心配をニョーボに話すのがやっとだった。
「これで家が崩れたらローンを抱えたままアパート暮らしかよ!クッソー」と、轟音の中でお金の心配だけしていた。あとはもう運に任せるしかなかった。
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2:地震直後
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揺れが収まったとき、運の良いことに電気はまだ来ていた。石油ストーブとガスのメータは良い仕事(耐震消火&遮断)をしてくれたおかげで火事の心配は無かった。食器棚や本棚も耐震対策していたので倒れはしなかったが、その棚の中では食器が自由自在に踊っていた。
二階でパソコンが動いたままだったのでシャットダウンしようと二階へ上がったとたんに停電。UPSの警報が鳴っている中を自分の掲示板に「生きてます」とだけ書き込んでシャットダウン。無線家としては詳しく状況を書くべきだったが、そこまでの考えは至らなかった。
耐震対策をしたCRTや無線機は無事だったものの、隣の机にあるもう一台のパソコンは15インチCRTが机の下にダイブ。書棚は倒れていなかったが中身が全て部屋に散らばっていた。オーディオ関係はラック毎あらぬ方向を向いていた。この部屋で地震に遭わなかったことを心から感謝した。
懐中電灯と広帯域受信機を探してから階下に降りた。階下に降りた頃に停電は復旧。停電の間不自由しなかったのは天井灯の蛍光ランプを畜光式のホタルックという製品にしていたためである。
とりあえず、めいめいの部屋からそれぞれの懐中電灯とラジオがリビングに集まった。電気は復旧したのだからテレビを見ればいいのに、何故か家族でラジオを聞き始める。「非常時にはラジオ」という思想からだったのであろう。そこに本震と同じ規模の二度目の大きな揺れが来た。瞬間、家族それぞれが近くの食器棚や茶箪笥を無意識に押さえる。(18時12分頃)
その直後から近所が賑やかになってきた。家の外に避難する人が増えてきたのである。確かに家の中にいては不安なので、我が家も外に出ることにする。1964年の新潟地震以来の「避難」である。
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3:避難状況
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防災袋(毎年メンテナンスしていて良かった!)を玄関に出し、分電盤のブレーカを落とし、ガスメータの元栓を閉じて、各自が懐中電灯とラジオを持って外に避難。ご近所さんもほとんどが外に出ていた。誰となく住宅地の大きな交差点付近に集まる。街灯が点っているのでそれほどの不安はない。懐中電灯がないという家の人のために我が家のを貸し出す。一部屋に一台以上用意しておいたのが役に立った
近所の人と立ち話をしながら地元の消防無線を聞く。どうやら西谷方面の被害が深刻らしい、本津川と半蔵金の道路が被害甚大だということが判った。そのころに三度目の大きな揺れ。思わず電柱や屋根からの落下物はないかと上を見上げる。(18時34分頃)
アマチュア無線の非常通信でもあるかと考え、車を出して準備しようと思ったが、車庫に行くと車の横にある金属棚は耐震対策で無事だが、中身がすっかり落ちていて車に覆い被さっており、車を出せる状況にない。夜中で暗いのであっさりとあきらめる。後日、ハンディ機を買う大きな理由となる。
三度目の地震から小一時間くらい外にいたかも知れない。
しかし、外にいてもどうしようもないので一旦家に入る。震度4クラスの余震が続く中、冷え切った夕食(と冷え切った燗酒)を家族でとる。このころ、ようやくテレビが使えることに気付く。
NHKを見てみるが中越地区からの映像はほとんど無く、東京での気象庁記者会見ばかりが映し出される。同じ天変地異を共有しているはずなのに、テレビの中はやはり別世界だと感じる。
そんな中、ようやく市の広報車が来た。自宅にいるのが心配な人は市の体育館が避難所になったので来るようにとのことだった。あんな遠くまで年寄りはどうやっていけばいいのだろう?
さすがに通常通り寝るのは怖いので、家族そろって玄関に一番近い部屋で普段着のまま靴下も履いて寝ることにする。家族そろって寝るなんて久しぶりだ。寝ている間に何度か余震があったらしいが、燗冷ましの酒のせいで全く気付かずに夜を過ごす。
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4:翌日の状況
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翌日、テレビを見てみる。あちこちの被害の大きさを報道しているが、被災者に役立ちそうな情報は全くない。これはラジオも同じである。マスメディアは被災者のためにあるのではなく、第三者のためにあることを痛烈に感じた。 私としてはさしあたって、何処の道路が不通で、何処が通れるのか情報が欲しい。(同年の7.13水害でもこの道路情報が無くて困った)
被災者の生活に役立つ情報という面では、マスコミは全くアテにならないので諦めて、自分の足(自家用車)で通勤路線の下見に出かける。
ガソリンはタンクに3/4程度、でも先行き不安なのでガソリンスタンドの開店時間にあわせて給油に出かけるが、既に5台ほどの待ち行列。皆考えることは同じのようだ。ガソリンスタンドでは給油ポンプが4台中3台地震でやられており、残ったたった一台の給油ポンプで営業していた。何とか営業を継続しようとする姿勢に頭が下がる思い。
通勤路の下見ついでに、子供の学校が心配なので行ってみることにする。長岡に入ると、浦瀬付近から南はアスファルトがめくれていたり、電線が垂れ下がっていたり、家がつぶれていたりと、東山連峰に近い地域は大変な被害であることが判った。
学校に着くと、予想以上の甚大な被害に驚く。これで死者が出なかったのは奇跡だと思う。
寮生は全員第二体育館に避難しているとのことなので情報を求めて行ってみる。翌日からの授業はどうなりますかと学校関係者に聞いたら、しばらく休校にするので自宅待機してくれとのこと。まさかそれが二ヶ月以上も続くとはこのときには知るよしもない。
家全体が車道に傾斜したりマンホールが飛び出ているような道路をかいくぐり、会社に到着。ガラス・壁のひび割れ、書類の散乱などはあったが、サーバーは無事。それを確認して帰宅。
なお、この日は震災直後のため車はほとんど通行がなく、長岡へのアクセス時間は通常通り行けた。しかし、翌日以降の通勤は(新榎峠が被災し通行不能であるため)通行可能な道路に車が集中し、桑探峠経由で長岡に出るのに3時間以上かかる(通常は30分)こととなる。
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マスコミ報道:新潟日報「中越地震」
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