「あ」
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赤谷(あかたに)「あかたに」
(写真)国道290を吹谷方面に見る
アカはアイヌ語で魚の背骨、もしくは尾根の意味。尾根の谷に開けた村だからアカの谷で赤谷。という説を聞いたことがあります。また、昔その尾根に城があったと聞いています。
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秋葉公園(あきばこうえん)「あきばこうえん」
(写真)秋葉公園の謙信公。「毘」の旗は私のです(笑)
秋葉公園には、常安寺の127段の石段を登ると、火防の神として有名な秋葉神社があります。 さて、どのような資料を見ても、秋葉公園はその昔は長岡の奥座敷として巨大アミューズメント・パークとして栄えたとの話が出ております。事実、栃尾鉄道が開通してからも繁華な公園として栄えたらしいですし、土地のお年寄りも昔はここでいろいろな出店や屋台で遊んでいたと言います。 しかし、私の世代ではどうしてもその栄華を想像することが出来ません。本当にそうだったのかと首をかしげるばかりです。 しかし、未だにある茶屋や料亭を見るにつけ、何となく昔のよすがを垣間見ることだけは出来ます。
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東町(あずまちょう)「あずまちょう」
(写真)東町付近
昔は繊維関係の家がたくさんあったと記憶している東町です。
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「い」
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雷(いかずち)「いかずち」
一之貝の奥に昔、こういう集落がありました。(今は住んでいません)→栃尾情報局参照
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石峠(いしとうげ)「いしとうげ」投稿者:小林さん
(写真)石峠トンネル
国道290号線。栗山沢と守門村の境。今はトンネルになりましたが、昔はすごい峠道でした(でもバス路線だったこともある)。旧峠の近くには、武蔵坊弁慶が弥彦山から投げた石があって、弁慶の足形がついているとか。(愛乱度の祖母からの伝承) あと、「栗山(くりゃまの)カエルと広瀬(ひろせ)のカエル」という昔話で、お互いのふるさとを蛙が眺めたのもこの峠であります。
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一之貝(いちのかい)「いちのけぇ」
(写真)名物の吉田キムチ付近にて
雲帯寺というお寺がありますが、これを建立したのは日蓮のお弟子さん。柏崎から佐渡に渡ろうとしていたときに暴風雨で放浪。迷った石峠で西方に瑞雲たなびく場所を見つけ、たどり着いたのが一之貝だったとか。
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一之渡戸(いちのはた)「いちのはた」投稿者:わかさん
栄町の一部は昔、一之渡戸(いちのはた)と呼ばれていました。これは昔、刈谷田川(かりやたがわ)の渡し場(対岸との交通を担う渡し船の船着き場)があった事に由来いたします。
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入塩川(いりしおがわ)「しょーがわ」
(写真)2001年3月で廃校になってしまった塩川小学校
大昔の入塩川は今の地区より2kmほど塩谷川の上流にあったと聞いています。塩谷川の一番奥にあったので入塩川なのでしょう。そのころ村には塩水の出る井戸がありましたが、不届き者がその井戸で腰巻きを洗ってしまい、それ以来塩水が出なくなったとか。 この近所にも山城があったと聞いております。
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「う」
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上の原(うえのはら)「うえのはら」
(写真)栃尾南小学校。右隣には美術館があります。
若い人向けの市営アパートが出来ました。市外からの入居者も増えてます。どうやら戦後に町営住宅を造ったのが開発の最初のようです。1956年に栃尾中学校が作られた後は急速に発展。現在に至ります。
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梅野俣(うめのまた)「うめんまた」投稿者:八百板さん
(写真)梅野俣集落センター前。
「梅」は「埋め立て」、つまり開墾された地名につく場合があるそうです。また、「俣」は道の分岐点を表す意味だそうで、陸上交通の要所として付けられた場合が多いそうです。 地元の伝説に寄れば、「開墾時にはグミの木と梅の木の大木があり、この木の間に小屋がけして開墾を始めたので梅野俣」だそうです。
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「え」
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「お」
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「か」
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金沢(かなざわ)「かなぞー」
(写真)金沢3丁目交差点にて
栃尾でも古くから開けた金沢。この金沢を通る国道290号線が2003年に全通しました。これからの発展が期待される場所です。
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金町(かねまち)「かねまち」
松葉橋が2002年にリニューアル。メインストリートが別の道路に変わっちゃいました。 大昔は金沢に含まれていた場所だそうです。
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鴉ヶ島(からすがしま)「からすがしま」
(写真)鴉ヶ島の遠景
会津の人が開発した村との伝承も聞いてますが真偽は不明。
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軽井沢(かるいざわ)「かるいざわ」
(写真)平安時代の京都羅生門の鬼、「酒呑童子」の弟分である「茨城童子」を奉る祠。
この軽井沢から比礼にかけての道路沿いが「プチ別荘地」のような状態になってます。確かに守門を望む眺めは良い場所であります。まして「軽井沢」!(笑)
軽井沢の「軽井」は、背負うという意味の古語「かるう」のことです。荷物を背負って渡らなければならない沢があったことを示しているのだそうであります。
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「き」
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「く」
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熊袋(くまのふくろ)「くまんふくろ」
平安時代の京都羅生門の鬼、「酒呑童子」の配下で四天王の一人である「虎熊童子」は熊袋出身
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栗山沢(くりやまざわ)「くりゃま」
(写真)有名なしだれ桜も今は雪の中
しだれ桜が有名で、春になると地区あげてのお祭りがあります。国道290号線の道端にもしだれ桜がたくさん植樹されています。まだまだ若木ですが、やがてはきれいな桜並木になることでしょう。 開村伝説として、奥州に逃れる源義経に従ってきた井田某が開村した村で、その子孫の娘「おかん」の住んでいた山は今でも「おかんがまま」として呼ばれているとか。
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黒切田(くろぎった)「くるぎった」投稿者:ゆきさん
(写真)黒切田の水くみ場
杜々の森と同じく、名水(鉱泉)が湧き出ることで有名。ですが、目的地に行くまでが大変です。なので私はまだ行ったことがありません。(笑)
写真はNOAHさんから頂きました。ありがとうございます。
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桑探峠(くわさがしとうげ)「かさがし」
(写真)厳冬の桑探峠(栃尾側より)
見附の田井町と小貫を結ぶ峠道。山道だったのが1980年頃に拡幅整備され、新榎トンネル(国道351号線)が開通するまでの1980年代は、は自家用車通勤組が長岡へと毎日通う、メインストリートでした。
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「け」
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「こ」
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「さ」
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栄町(さかえちょう)「さかえちょう」
(写真)栃尾の「駅」(栃尾鉄道跡)
栄町のこの場所は昔、栃尾鉄道の駅がありました。今ではバス停「栃尾車庫前」なのですが、古くからの人は未だにココを「駅」と呼んでおります。なお、未だに線路の敷設跡は残っており、栃尾「駅」から上見附「駅」まで、自転車や徒歩で往事の面影を偲ぶことが出来ます。
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「し」
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塩新町(しおあらまち)「しおあらまち」
(写真)塩新町の表示板付近
塩谷地方に出来た新しい町。と言う意味なのでしょうけど、一体どれくらい新しい(古い)のかは私には解りません。
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清水町(しみずちょう)「しみずちょう」投稿者:わかさん
土々町と合併して今は本町になっています。
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下樫出(しもかしいで)「しもかせーじ」投稿者:八百板さん
もともとは「けやきの沢」に10軒ほど家があったものが、上と下とに分かれて発展した地区なのだとか。
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城山(しろやま)「しろやま」
(写真)栃尾城の本丸跡
標高228m。その昔、栃尾城が築かれていたことから「城山」もしくは「栃尾城跡」と呼ばれております。山の本当の名前は「鶴城山」と言うらしいのですが、誰もそんな言い方はしていません。 時々、大河ドラマで有名になることがあります。頂上は見晴らしがよいので、ちょっとしたハイキングに最適です。
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新栄町(しんさかえちょう)「しんさかえちょう」
(写真)人口2万5千の街にはデカスギ(?)
栄町が発展して分離独立した町であります。(栃尾としては)でかいショッピングセンターやホームセンターもできあがり、ますますにぎやかです。
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「す」
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「せ」
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「そ」
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市内各所
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装蹄場(そうていば)「そうでんば」
馬の蹄は蹄鉄を着けないで運動させると、伸びるよりも早く蹄が擦り減ってしまうため、蹄を護るために蹄鉄を付けます。この作業を「装蹄」(そうてい)といいます。そのため定期的に蹄を切って整えてやらないといけません。 農耕馬に対してこのような作業を、専門業者が来て出張作業を行った場所が「そーでんば」の意味のようです。 馬の居なくなった私の世代の頃になると「そうでんば=ゴミ捨て場」状態になってましたので、子供の頃は粗大ゴミを捨てる場所を「そうでんば」というのだと思ってました。
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「た」
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「ち」
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中央公園(ちゅうおうこうえん)「ちゅうおうこうえん」
(写真)新緑まぶしい中央公園入り口
ここには昔、栃尾小学校があったのですが二つに分かれてしまい、跡地に公園ができました。毎年8月の終わりに行われる栃尾祭り(正式には「とちお祭り」)のメイン会場となっております。
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「つ」
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土ヶ谷(つちがや)「つちがや」
(写真)土ヶ谷の看板付近にて
ややもすると「つちがたに」と言ってしまい、皆様から失笑をいただく私であります。しかし、本来は「つちがたに」が昔からの地名であり、栃尾市合併時に「タニは田舎くさい」ということで「つちがや」になったのだとか。
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「て」
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「と」
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道院(どういん)「どういん」
古くからのキャンプ場なのですが、1990年代に徹底的に市がテコ入れしまして、ロッジ・オートキャンプ場・グレスデンスキー場等の設備を作り道路も拡幅工事して「道院高原キャンプ場」として売り出し中!! (昔の方が良かった・・・というのは中年の独り言) 静かでファミリーキャンプには良いところです。
新潟県中越地震後はこんな感じでした。(2004年12月04日) しかし現在は完全復旧しております。
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栃尾旭町(とちおあさひちょう)「あさひちょう」
(写真)旭町付近
旭日の勢いで町が発展するようにとの願いから「旭町」になったんだそうです。
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栃尾新町(とちおあらまち)「あらまち」
(写真)新町の雁木(がんぎ)
大町の隣に作られた(大町と比べて)新しい町、と言う意味のようですが、ソレってずいぶん古い「新しい町」なわけで・・・。
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栃尾大野町(とちおおおのまち)「おおのまち」
家が混み合っているところが大野町。その周辺が大野、と理解すればよいようです。
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栃尾大町(とちおおおまち)「おおまち」
(写真)大町の雁木(がんぎ)
昔はここに警察署も含めて役所が集中しておりました。 栃尾城の城下町として早くから栄えた町であり、かつては栃尾の中心地でありました。
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栃尾表町(とちおおもてまち)「おもてまち」投稿者:こなさん
(写真)表町の雁木通り
岩崎・神明町・横町・七日町・上の山が合併して表町なったとか。ちなみに神明町には江戸時代には代官所が置かれ、横町は花柳街だったとか。といっても、どこがどこやら(笑)。
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栃尾坂(とちおざか)「とちおざか」
(写真)結構急斜面なんですよ
新町から山田町に上る坂道。一昔前までは見附長岡方面に抜けるには必ずココを通る必要がありました。冬はこの坂が滑って大変でした。いや、大変です。 私が通勤を始めた頃でも、冬になると市外に出るにはこの道路一本だけしか空いていない状況でした。今のように冬でも複数路線が市外に通じるようになったのは、1990年代です。
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栃尾町(とちおまち)「とちおまち」
栃尾という地名は栃の木に由来があるそうで、昔はこの地には沢山のトチノキがあったのだとか?
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栃尾トンネル(とちおとんねる)「とちおとんねる」
(写真)新栄町側出口の景色がオススメ
2002年に完成したトンネルです。将来は栃尾をぐるりと回る環状線の一部となるべきトンネルなのですが、その環状線が完成するのはいつなのだろう?
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栃尾原(とちおはら)「はら」
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栃尾宮沢(とちおみやざわ)「みやぞー」
(写真)道の駅「R290とちお」と「おりなす」
道の駅があるところです。ここで即売している「あぶらげ(油揚げ)」は逸品!! 宮沢は昔、川の反対側にあり、そこには守門神社があったと聞いております。その宮沢が河川改修等により移転、移転先の柳島と宮沢が合併して今の宮沢になったそうです。
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栃尾山田(とちおやまだ)「やまだ」
山田町の周辺が山田
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栃尾山田町(とちおやまだまち)「やまだまち」
(写真)前方が栃尾坂になります
聞くところに寄ると、ここは山田忠左エ門が開拓したのが起こりで、開拓者の名字がそのまま地名になったものだとか。
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栃倉(とちくら)「とちくら」
(写真)栃倉は畑が多い。左端向こうに弥彦山。
縄文時代から人が住んでいたという遺跡のある場所です。邪馬台国はここにあったんだという本を書いた人もいた(「邪馬壹国は新潟県であった!(桐生源一著)」)のですが、本当のところはどうなのでしょうか? 戦後になって開拓された土地で、もともとは大倉の一部でした。一時は25戸もの家があったとか。
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栃堀(とちぼり)「とちぼり」
(写真)朝日に輝く東谷小学校
裸押し合い祭り・ファミリースキー場・刈谷田ダム・釣り堀等がお勧め。また、守門登山の入り口としても有名です。お泊まりは是非刈谷田ニューホテルへ、ドライブのご休憩にはドライブイン刈谷田どうぞ!
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杜々の森(とどのもり)「とどんもり」
ご存じ名水百選の湧き出る森。キャンプ場もあります。 新潟県中越地震後はこんな状態でした(2004年11月21日) しかし現在は完全復旧しております。
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土々町(どんどんちょう)「どんどんちょう」投稿者:わかさん
清水町と合併して今は本町になっています。 どんど焼きをする河原があったことからこの町名になったのだとか。
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「な」
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中(なか)「なか」
(写真)西谷小学校全景
ふるくは「中村」。源義家が蝦夷征伐の際、その部下、中村五郎広政なる人物が流れ矢に当たって歩行困難になり、この地にとどまり城を築き残敵鎮圧のための守備隊長として働いたことから「中村」→「中」。
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仲子町(なかごちょう)「なかごちょう」
(写真)仲子町付近
刈谷田川の「中州」が変化して「仲子」となったのだとか。
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七曲り(ななまがり)「ななまがり」
(写真)七曲り山頂に立つ謙信廟と門察和尚墓、バックは城山
七曲りといっても警察署が有るわけではありません。曲がりくねった道のあるところには結構「七曲り」という地名が多いのですが、栃尾で一番メジャーな七曲りはここでしょう。 場所は栃尾美術館のところです。ここには大正7年に謙信廟が建立され、その際には米沢の上杉家から謙信愛用の兜の前立てと厨子入り位牌がたまわれました。また隣には謙信の教育者であった門察和尚の墓もあります。
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「に」
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西中野俣(にしなかのまた)「にし(なかのまた)」
(写真)中野俣郵便局付近
古くは「中野俣」でしたが、大きな地滑りによって東中野俣と西中野俣に村が分割。さらに東中野俣は江戸時代にも地滑りがあって、繁窪と新山に分離。栃尾は本当に地滑りの多いところです。
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西野俣(にしのまた)「にしんまた」
(写真)西野俣バス停付近
昔は長岡に行くための交通の要所でした。ここから森立峠を越えて旧道があったわけです。
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楡原(にればら)「にればら」
(写真)通称「三和団地」もしくは「新開地」あるいは「団地」と言われる住宅地
昔、楡の木が多くて原っぱになっていたから楡原だそうです。 楡原にはその昔、勅命で大和の吉野山から蔵王権現の分霊を招いて祀ったのが708年。その僧坊は三十八坊を数え修験者数千人。その勢力は北陸から東北にまで及んだとの話もあります。今の社からすると想像も付きませんが。
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「ぬ」
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「ね」
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「の」
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「は」
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鳩峰(はとみね)「はとみね」投稿者:わかさん
一部の間では「はげ山」とも言うらしい。栃尾祭り(正確には「栃尾まつり」)で花火を打ち上げる場所です。山頂で打上げるため渇水の時には花火が中止になったこともありました。 無線の運用場所としても良さそうなのですが、やってみるとあんまり・・・。
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半蔵金(はんぞうがね)「はんぞがね」投稿者:kaneuchiさん
(写真)向かって右が中学校校舎跡。左は小学校。
長岡藩の砲台が昔、設置されていたとか。なお、ここから長岡の栖吉(すよし)に抜ける林道は素敵です。 古くは「半沢兼」とも書かれていたとか。確かに沢の片方、左岸に開けた村ですねぇ。
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「ひ」
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人面(ひとづら)「ひとづら」
(写真)「山中新田」の石碑を望む
「じんめん」ではありません。「ひとづら」です。当然、人面魚の名産地ではありません、念のため。
地名の由来というか語源は、四人村。四人面ともいわれ、土田・片山・小林・神保姓の四人が開発したという伝説から来ているとのこと。 ちなみに戦国時代にはこの地にもお城(というか砦?)があったのだとか。
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比礼(ひれい)「ひれ」
(写真)諏訪神社の入り口にある清水。美味しそうです。
新榎トンネルができた今では、長岡に抜ける交通の要所となっております。あ、競輪の場外車券売り場も活況を呈しております。 ちなみにこの新榎トンネルの上の方は、プチ別荘地として結構別荘が並んでおります。東方面(守門岳)のながめはすばらしいものがあります。 古くは石油の出るところとして開発が進み、今でもその跡が少し残っています。ちなみに比礼には「地獄谷」なる場所があるそうですが、未確認。
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「ふ」
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吹谷(ふきだに)「ふきだに」
(写真)吹谷のお店屋さんの前です
昔、「巡査落とし」などという通称名の場所を祖母から聞いたことがあるのですが、あれは一体どこなのでしょうか?(2006年9月に頂いた情報によるとここら辺とのことでした。だとすれば、吹谷ではなくて赤谷ですね) 吹谷には最近は「あぶらげHill」などという謎な場所もあります。 地名の由来として、鉄を吹いた製鉄に関係あるところだろうと言われていますが詳細は不明。
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二ツ郷屋(ふたつごうや)「ふたつごや」
(写真)国道290号から守門岳(すもんだけ)を望む(のつもり)
このへんも無線をするには良さそうな気がするのですが、如何なのでしょうか?
ちなみに二ツ郷屋(ふたつごうや)とは、二つの村が協力して開墾したことを意味するそうです。三つなら三ツ郷屋、四つの村なら四ツ郷屋になるそうな。ではこの二ツ郷屋を作った二つの村は、どことどこなのでしょう?調べたところ、熊袋から来た飯浜さんと栃堀から来た星野さんが最初なんだとか。
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二日町(ふつかまち)「ふつかまち」
(写真)二日町郵便局付近
昔であればこの地は、長岡から会津に抜けるメインストリートでありました。であれば「市」が開かれるのもうなずくわけでして、「二のつく日」に市が開かれたので二日町。ここにも戦国時代には山城があったと聞いております。
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文納(ぶんのう)「ぶんの」
(写真)文納のバス停付近
古くは奉納(ぶのう)と呼ばれており、それがなまって「ぶんのう」になったものだとか。
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「へ」
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「ほ」
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法華塔(ほっけとう)「ほっけとう」
武士があまりにも空腹のため、人を切ってその人の胃の内容物を食べたとかいう、凄惨な伝説があるらしい。(親戚談)
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本所(ほんじょ)「ほんじょ」
(写真)本所の集会場付近
「本所」というのは、皇族や公卿や大社寺に寄進された荘園を管理していた荘官の、居住地だったんだそうです。戦国どころか、それより昔の歴史を感じさせる地名なんですね。
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「ま」
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松尾(まつお)「まっつぉ」投稿者:kaneuchiさん
(写真)実った田圃と民家
会津の落ち武者(時代不明)が村を開いたと言われ、そのとき、身分を隠すために木の間に隠れ住むとの意味を込めて村人は木間姓を名乗ったのだとか。 ここにも松尾城という城があったと聞いております。
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「み」
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「む」
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葎谷(むぐらだに)「むぐらだに」
山を越えた下田村(しただむら)にも葎谷という地名があり、隣り合わせになっています。お互いに相手を「外葎谷」と呼んでいるのだとか? 葎が一杯茂っている谷を開発したことから葎谷となったそうです。また伝説では、天正の頃に会津から羽黒様を背負った旅人が来てやがて里長になり、その頃から村が発展したという伝説があるそうです。 (「葎」を調べてみると、原野に繁茂する雑草をひっくるめて「葎(ムグラ)」と呼んでいた時代があったそうで、どうやら特定の植物を指していないのかもしれません)
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「め」
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「も」
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「や」
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山口(やまぐち)「やまぐち」
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「ゆ」
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「よ」
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吉水(よしみず)「よしみず」
(写真)とても立派な郵便局
1700年代の中頃に開かれた土地であり、吉水の地名も開墾を記念して命名されたのだとか。
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「ら」
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来伝(らいでん)「だいれ」
地図上は「来伝」です。もとはひとつの村でしたが、自治は明治36年に「下来伝」と「上来伝」に別れております。古くは来出と書かれた資料を見たことがあります。開墾に着手した日に落雷があったので雷出としたという説も?
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「り」
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「る」
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「れ」
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「ろ」
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「わ」
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「を」
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「ん」
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